………。
 ……。
 …。
 うあーーーん…
 うあーーーーーーーんっ!

 泣き声が聞こえる。
 誰の……?
 わたしじゃない……。
 そう、いつものとおり、栞だ。



「うあーーーーん、おとおさーーんっ!」
「どうした、栞」
「お姉ちゃんが、蹴ったぁーーっ!」

「香里、お前、またっ」
「ちがうわよ、遊んでただけよ。真空飛び膝蹴りごっこして遊んでたのよ」
「そんなのごっこ、なんていわないんだ! おまえ前は、水平チョップごっことか言って、泣かしたばっかじゃないかっ」
「ごっこよ。本当の真空飛び膝蹴りや水平チョップなんて真似できないくらい切れ味がいいのよ?」
「ばかな理屈こねてないで、謝るんだ。栞に」
「うあーーんっ!」
「うーー栞ぃ……ごめんね」
「ぐすっ……うん、わかった……」
「よし、いい子ね。栞は」
「香里、お前が言わないっ!」

 じっさい栞が泣き止むのが早いのは、べつに性分からじゃないと思う。
 わたしが、ほんとうのところ、栞にとってはいい姉であり続けていたからだ。
 そう思いたい。
 父子家庭であったから、栞はずっと母さんの存在を知らなかった。
 わたしだって、まるで影絵のようにしか覚えてない。
 動いてはいるのだけど、顔なんてまるではんぜんとしない。
 そんなだったから、栞には、女としての愛情(自分でいっておいて、照れてしまうけど)を、与えてやりたいとつねづね思っていた。


 母親参観日というものがある。
 それは母親が、じぶんの子供が授業を受ける様を、どれ、どんなものかとのぞきに来る日のことだ。
 わたしだって、もちろん母親に来てもらったことなんてない。
 でもまわりの連中を見ていると、なんだかこそばゆいながらも、うれしそうな顔をしてたりする。
 どんな化粧が厚くても、それは来てくれたらうれしいものらしかった。
 しかしそのうれしさというものは、わたしにとっては、えいえんの謎ということになる。
 きっと、たぶん、二度と母親なんて存在はもてないからだ。
 振り返ったとしても、そこには知った顔はなく、ただ誰かから見られているという実感だけがわく、ちょっと居心地の悪い授業でしかない。
 わたしの母親参観とは、そんな感じでくり返されてゆくのだ。

 でも栞には、女としての愛情を与えてやりたいとつねづね思っているわたしにしてみれば、わたしと同じような、
『ちょっと居心地の悪い授業でした』
 という感想で終わらせてやりたくなかった。
 だから、一大作戦をわたしは企てたのだ。


「栞、わたしがでてあげるわ」
「お姉ちゃんって、あいかわらずバカだよね」
「バカとは、なんだ、このぉーっ!」
「イタイ、イタイよぉーっ、お姉ちゃんっ!」

 アイアンクローごっこで少し遊んでやる。
 最近のお気に入りだ。

「えぅぅっ……だって、お姉ちゃん、大人じゃないもん」
「そんなものは変装すれば大丈夫よ」
「背がひくすぎるよ」
「空き缶を足の下にしこむわ」
「そんな漫画みたいにうまくいかないよぉ、ばれるよぉ」
「だいじょうぶ。うまくやってみせるわよ」
「ほんとぉ?」
「ええ。だから、次の母親参観日は楽しみにしてなさい」
「うんっ」

 初めはバカにしていた栞だったが、最後は笑顔だった。
 栞の笑顔は、好きだったから、うれしかった。
 そして来月の母親参観日が、わたしにとっても待ち遠しいものになった。


 栞が病気になったのは、そろそろ変装道具をそろえなきゃな、と思い始めた頃だった。
 ちょっと治すのに時間がかかるらしく、病院のベッドで栞は過ごすことになった。

「バカね、あなた。こんなときに病気になって」
「そうだね……」
「あなた、いつも顔出して寝てるからよ。気づいたときにはなおしてあげてるけど、毎日はさすがに直してやれないわよ」
「うん、でも、お腹に落書きするのはやめてよ。まえも身体検査のとき笑われたよ」

 わたしはいつも、油性マジックで栞のお腹に落書きしてから布団をなおしてやるので、栞のお腹はいつでも、笑ったり、泣いたり、怒ったりしていた。

「だったら、寝相をよくしなさい」
「うん。そうだね」

 栞の邪魔そうな前髪を掻き上げてやりながら、窓の外に目をやると、自然の多く残る街の風景が見渡せた。
 そして、秋が終わろうとしていた。


「栞ー」
「あ、お姉ちゃん。どうしたの、こんな時間に」
「栞、退屈してると思ってね」
「ううん、大丈夫だよ。本、いっぱいあるから、よんでるよ」
「本? こんな字ばっかのが、おもしろいわけないだろ。やせ我慢しないの」
「ぜんぜんがまんなんかしてないよ。ほんと、おもしろいんだよ」
「というわけでね、これをあげるわ」

 わたしは隠しもっていた、おもちゃを栞に突きつけた。

「なにこれ」
「カメレオンよ」
「見たらわかるけど……」

 プラスチックでできたおもちゃで、お腹の部分にローラーがついていて、それが開いた口から飛び出た舌と連動している。

「見なさい、平らなところにつけて、こうやって押してやると、舌がぺろぺろでたり入ったりするのよ」
「わぁ、おもしろいね。でも、平らなところがないよ」
「なにっ?」

 言われてから気づいた。
 確かにベッドで過ごしている栞からすれば、平らな机などは、手の届かない遠い場所だ。

「あ、でも大丈夫だよ。こうやって手のひら使えば……」

 ころころ。

「あら、栞、頭いいわね。でも少し爽快感がないけどね」
「そんな舌が素早くぺろぺろ動いたってそうかいじゃないよ。これぐらいがちょうどいいんだよ」

 ころころ

「そうね」
「お姉ちゃん、ありがとね」
「まったく、こんなくだらない本ばっかりよんで暮らすあなたが、見るにたえなかったからね。よかったわよ」
「うん、これで、退屈しないですむよ」

 しかし話に聞いていたのとは違って、栞の病院生活はいつまでも続いていた。
 一度、大きな手術があって、後から知ったのだけど、そのとき栞のお腹は、栞のお腹でなくなったらしい。
 そして、そのころから父さんは病院よりも、ちがう場所に入りびたるようになっていた。
 どこかはよくしらない。
 ときたま現れると、わたしたちが理解できないようなわけのわからないことを言って、満足したように帰っていく。
『せっぽう』とか言っていた。どんな漢字を書くかはしらない。


「わ、病院まちがえたっ!」
「合ってるよ、お姉ちゃん」
「え……? 栞?」
「うん、栞だよ」

 栞は、髪の毛がなくなっていた。

「びっくりしたわよ、お姉さんは」
「うん……」

 ただでさえ、ここのところやせ細っているというのに、さらに頭がツルツルになっていれば、私だって見間違える。
 そのくらい、栞は姿が変わってしまっていた。

「やっぱり、お腹がなくなったから、体重減っちゃったのかしら?」
「そうかも」

 喋りながら、ころころとカメレオンのおもちゃを手のひらで転がしていた。
 ぺろぺろと舌が出たり入ったりするのを、栞はくぼんだ目で、見つめていた。
 わたしは栞には絶対に、苦しいか、とか、辛いか、とか聞かないことにしていた。
 聞けば、栞は絶対に、ううん、と首を横に振るに違いなかったからだ。
 気を使わせたくなかった。
 だから、聞かなかった。
 ほんとうに苦しかったり、辛かったりしたら、自分から言いだすだろう。
 そのとき、なぐさめてあげればいい。
 元気づけてあげればいい。
 そう思っていた。


 年が明け、栞は、正月も病室で過ごしていた。
 わたしも、こんなにも静かな正月を送ったのは初めてだった。

「栞は、今年の願いごとはなに?」
「もちろん元気になることだよ。それで、お姉ちゃんがきてくれる、母親参観日をむかえるの」
「そうね。去年は無理だったものね」
「うん、今年こそはきてもらうよ」

 時間はあのときから止まっていた。
 そろえ始めていた変装道具も、中途半端なままで、部屋に置いてある。
 進んでいるのは、栞のやせる病状だけに思えた。
 そのときを境に、栞は母親参観日のことをよく口にするようになった。
 わたしも、今年こそはと、強く思うようになっていった。


 正月も終わり、街並が元通りの様相に戻ってゆく……。
 でも、栞の過ごす病室だけは、ずっと変わらなかった。

「栞ー」
「お姉ちゃん、また、こんな時間に……」
「また手術するって聞いて、きたのよ。また、どこか取るの?」
「ううん……。その手術はしないことになったよ」
「そう、よかった。どんどん栞のお腹が取られてゆくようで恐かったのよ」
「うん、もうしんぱいないよ」
「ほんと、よかったわ」
「うん……」

 ころころ。
 ふたりが黙り込むと、ただカメレオンを手のひらで転がす音だけが聞こえてくる。

「お父さんは、どんな感じ?」
「相変らずよ」
「お姉ちゃん、お父さんのことも心配してあげてね」
「うん、そうね……」
「じゃあ、そろそろ眠るよ」
「ええ」

 静かに目を閉じる、栞。
 手には舌をつきだしたままのカメレオンを握ったままだった。
 恐いくらいに静まり返る室内。

「………」
「…栞…」

 ………。

「……栞?」

 ………。

「栞っ!」

 ………。

「栞ーっ! 栞ーーっ!」
「……なに、お姉ちゃん」
「いや、寝ちゃったかなと思って」
「うん……寝ちゃってたよ。どうしたの?」
「ううん、なんでもない。起こしてわるかったわね」
「うん……おやすみ」
「おやすみ」


 月がまた変わった。
 でもわたしたちは、なにも変わらないでいた。
 栞は誕生日を迎え、病室でささやかな誕生会をした。
 でもわたしひとりが歌をうたって、わたしひとりがケーキをたべただけだ。


 ………。
 ころころ。

「………」

 ………。
 ころころ。

「………」
「お姉ちゃん……」
「うん、なあに?」
「ははおや参観日にしようよ、今日……」
「今日……?」
「うん、今日……」
「場所は?」
「ここ……」
「ほかの子は……?」
「栞だけ……。ふたりだけの、ははおや参観日」
「………」
「だめ?」
「よし、わかった。やろう」
「……よかった」

 栞が顔をほころばす。

 わたしは走って家に戻り、変装道具を押し入れから引っぱり出し、それを抱えて病院へと戻った。
 病院の廊下で、わたしはそれらを身につけ、変装をおこなった。
 婦人服を着て、エプロンをつけ、足の下に缶をしこんだ。
 そして油性マジックで、口紅をかいて、完成した。
 カンカンカンッ! と、甲高い音をたてながら、栞の部屋まで向かう。
 ドアの前にたち、そしてノックをする。
 ノックより歩く音のほうが大きかった。




「栞……」

 ドアを開けて中に入る。
 ………。

「栞ーっ!」

 ………。

「……栞ーっ?」
「う……お姉ちゃん……」

 口だけは笑いながらも、顔は歪んでいた。

「ちがうわ、お母さんよ」

 栞が苦しい、辛いと言い出さない限り、わたしも冷静を装った。

「うん……そだね……」
「じゃあ、見ててあげるからね」

 わたしは壁を背にして立ち、ベッドに体を横たえる、栞を見つめた。
 ごろごろ……。
 弱々しくカメレオンが舌を出したり、引っ込めたりしている。
 ただそんな様子を眺めているだけだ。
 ………。
 ころころ……。

「………」

 ………。
 ころころ……。

「………」
「う……」
「栞っ?」
「しゃ、しゃべっちゃだめだよぉ……おかあさんは…じっとみてるんだよ……」
「え、ええ……そうね」

 ………。

「う……はぅっ……」

 苦しげな息が断続的にもれる。
 わたしは栞のそんな苦しむ姿を、ただ壁を背にして立って見ているだけだった。

「はっ……あぅぅっ……」

 なんてこっけいなんだろう。
 こんなに妹が苦しんでいるときに、わたしがしていることとは、一番離れた場所で、ただ立って見ていることだなんて。
 ………。

「はーっ……あぅっ……」

 ………。
 カメレオンの舌が動きをとめた。
 そして、ついに栞の口からその言葉が漏れた。

「はぁぅっ……くるしいっ……くるしいよ、おねえちゃんっ……」

 だからわたしは、走った。
 足の下の缶がじゃまで、ころびながら、栞の元へ駆けつけた。

「栞、だいじょうぶよ。お姉ちゃんがそばにいるからね」
「いたいよ、おねえちゃんっ……いたいよぉっ……」

 カメレオンを握る手を、その上から握る。

「だいじょうぶよ、ほら、こうしていれな、痛みはひいていくから」
「はぁっ……あうっ……お、おねえちゃん……」
「どうしたの? お姉ちゃんはここにいるわよ?」
「うんっ……ありがとう、おねえちゃん……」

 わたしは、栞にとっていい姉であり続けたと思っていた。
 そう思いたかった。




 そして最後の感謝の言葉は、そのことに対してのものだと、思いたかった。































 栞の葬儀は、一日中降り続く雨の中でおこなわれた。
 そのせいか、すべての音や感情をも、かき消されたような、静かな葬儀だった。
 冷めた目で、栞の収まる棺を見ていた。
 父さんは最後まで姿を見せなかった。
 わたしはひとりになってしまったことを、痛みとしてひしひしと感じていた。

 そして、ひとりになって、栞がいつも手のひらでころころと転がしていたカメレオンのおもちゃを見た時、せきを切ったようにして、わたしの目から涙がこぼれだした。
 こんな悲しいことが待っていることを、わたしは知らずに生きていた。
 ずっと、栞と一緒にいられると思っていた。
 ずっと、栞はわたしのことを、お姉ちゃんと呼んで……
 そしてずっと、このカメレオンのおもちゃで遊んでいてくれると思っていた。
 もう栞の笑顔をみて、幸せな気持ちになれることなんてなくなってしまったんだ。

 すべては、失われていくものなんだ。
 そして失ったとき、こんなにも悲しい思いをする。
 それはまるで、悲しみに向かって生きているみたいだ。
 悲しみに向かって生きているのなら、この場所に留まっていたい。




 ずっと、栞と一緒にいた場所にいたい。































 うあーーーん…
 うあーーーーーーーんっ!

 泣き声が聞こえる。
 誰の……?
 わたしじゃない……。
 そう、いつものとおり、栞だ。



「うあーーーーん、うあーーーんっ!」
「うー……ごめんね、栞」
「うぐっ……うん、わかった……」

 よしよし、と頭を撫でる。

「いい子ね、栞は」
「うんっ」



 わたしは、そんな幸せだったときにずっといたい。
 それだけ……。































 あの日から、わたしは泣くことが多かった。
 泣いていない隙間を見つけては、生活をしているようだった。
 わたしは栞と過ごした町を離れ、叔母さんのところへとあずけられていた。
 4月の陽光に映え、緑がきれいな町だった。
 でも、それでも、わたしの涙は乾くことはなかった。
 どれだけ涙というものは流し続けられるのだろう。
 不思議だった。

「泣いているんですか……?」

 そしてその町で、最初に泣いているわたしをみつけたのがその女性だった。
 晴れた日、曇りの日、小雨がぱらつく日……。
 泣くわたしの隣には、彼女がいた。

「いつになったら、うちの娘とも遊べるのかしら」

 毎日のように泣き伏すわたしを見つけては、話しかけてくる。
 わたしは口を開いたことがなかった。開いたとしても、嗚咽を漏らしただけだ。
 もう空っぽの存在。亡骸だった。
 それにもかかわらず、彼女はそこにい続けた。
 いったい、その女性が何を待っているのか、わたしにはわからなかった。

「……お姉さんは何を待っているの」

 初めて、わたしは話しかけた。

「あなたが泣きやむのを。いっしょにうちの娘と遊んでほしいから」
「わたしは泣きやまない、ずっと泣き続けて、生きるの」
「どうして……?」
「悲しいことがあったの……
 ……ずっと続くと思ってたの。楽しい日々が。
 でも、永遠なんてなかったのよ」

 そんな思いが、言葉で伝わるとは思わなかった。
 でも、彼女は言った。

「永遠はありますよ」

 そしてわたしの両頬は、その女性の手の中にあった。

「ずっと、わたしと、うちの娘がいっしょに居てあげますよ、これからは」

 いって、ちょんとわたしの額に、その女性は口をあてた。





 永遠の盟約





 永遠の盟約だ。































 今さら、キャラメルのおまけなんか、いらなかったのよ。
 いらなかったのよ、そんなもの。

<どうして?>

 おとなになるってことは、そういうことなのよ。

<わからないわ>

 わからないさ。

 だってずっと…………。




......fin

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