……それは、ある日の午後。
『美汐、舞と牛丼を食べる』
今日は土曜日。午前中だけの学校が終わり、私こと天野美汐も当然ながら家へ帰ります。
学校に1人で残っていても暇ですし。
◇ ◇ ◇
暖かくて心地よかった春の日射しも、そろそろ肌をさす暑い夏の日射しへと変わってきました。
道を歩く私の頭上からも真昼の太陽が照っていて、日光が嫌いと言うわけではないのですが、ついつい日なたの道を避けて歩いてしまいます。
ここに相沢さんがいらしたなら、『どうせお肌のシミを気にしてるんだろう』などと私のことを茶化したでしょうね。
それはまぁ……実際に、お肌のシミは気になりますが。
お肌を気にするのは女性としては当然だというのが、私の言い分です。
ところで、最近思うのですが。
相沢さんは私を『おばさんくさい』と言いますが、私に言わせれば相沢さんが子供くさいのではないでしょうか。
今年は受験も控えているというのに、土曜日の放課後に校内で鬼ごっこはないでしょう。
相沢さん曰く、「これは鬼ごっこではなく命がけの逃走だ」とのことでしたが。私には違いがわかりませんでした。
……余談ですが、刃物を持って鬼のような形相で追いかける美坂先輩は、少し恐かったです。
と、とりとめのないことを考えながら歩いていると、前方に1人の女性が立っているのが目に入りました。
別に、女性が道端に立っているのが珍しいわけではないのですが、裏路地の……そう、牛丼屋の出入り口の一つをジッと睨んでいる様子が、妙に私の目をひきました。
綺麗なストレートの黒髪を首の後ろで一つにしばり、夏を意識したような薄手の白いワンピース。あれは、御自分で選んだ服でしょうか。
傍目から見れば、清楚な黒髪の女性……という感じです。仁王立ちで、牛丼屋の出入り口を睨んでいるのを除けば。
◆ ◆ ◆
「お久しぶりです、川澄先輩」
その女性、川澄舞先輩とは以前に一度、相沢さんの御紹介で食事に同席したことがあります。
相沢さんはその日、『美汐と舞の会話を聞いてみたかった』とおっしゃっていましたが、残念ながら殆ど会話はありませんでした。
別に私が初対面の川澄先輩を嫌ったわけでもなく、川澄先輩が私を苦手としていたわけでは無いとも思います。
つまりは……相沢さんは、そういう性格の二人を会わせてみたかったのでしょう。殆ど会話の無い私たちの食事を、相沢さんは非常に楽しそうに眺めていましたから。
川澄先輩はその後学校を卒業なさったため、顔をあわせる機会はなかったのですが。あの独特の雰囲気は忘れられません。
話がそれました。
私が軽い会釈と共に挨拶すると、川澄先輩はしばらく私の顔をジッと睨み付けます。
いえ、実際に本人は睨み付けたつもりはないとは思いますが、その鋭い視線は『睨み付けた』と表現するのが一番わかりやすい気がしたので、ここではそう表現することにします。
そして、何かぼそりと呟きました。
「……たぬきさん」
「……は?」
つい、聞き返してしまいました。
今、川澄先輩は『たぬきさん』と言った気がするのですが、いったいどういう意味でしょうか。
川澄先輩は、真琴がキツネであったのを相沢さんが話した、数少ない方のうちの1人だそうですが、その『キツネ』と何か関係あるのでしょうか。
もしかしたら他の意味があったのかもしれませんが、川澄先輩は私の顔をジッと睨んだまま、動かなくなってしまったので、真相は闇の中です。
どうかしたのかと聞いたのですが、川澄先輩は沈黙したままでした。
◆ ◆ ◆
「……お腹がすいたけど、お金がない」
2、3分は待ったでしょうか。
どうやら、ただ単に、牛丼を食べたかったけれどお金が無かった、というだけのようです。
「そう、ですか……」
私はそう答えるしかありませんでした。
「……………………」
「…………………………」
お互い、無言です。
「……………………(グ〜)」
「……………………………………」
今、川澄先輩のお腹がなりました。
「………………………………(グ〜)」
「…………並、くらいなら、私がお貸ししましょうか?」
「……ありがとう」
川澄先輩は、そう言うとすぐに自動ドアを抜けて店内へと入っていってしまいます。私も、入り口の横のポスターで『並』の料金を確認してから、慌てて川澄先輩の後をおいました。
店内に入ると、数人の店員、ならびに客の視線が私に向けられています。
いえ、視線が向けられたのは私にではなく、おそらくは川澄先輩に、なのでしょう。私はその連れとして、オマケのようなものです。
いつからかは分かりませんが、ずっと出入り口前でああしていたのですから、中にいる人たちから妙な視線を受けるのは当然といえば当然ですが。
「席……とってあげた」
そんな視線も気にせず、川澄先輩は中に入ってすぐのカウンター席につき、私の席と思われる隣の椅子の上に手をついて座っていました。
手をついているのは、他の客が席をとらないように、でしょうか。
お店はそれほど混んでいたわけでもなく、二人連れが座れる席は他にもいくつかあったのですが、川澄先輩の御厚意はありがたく受け取っておくことにします。川澄先輩にお礼を言って、私も席につきました。
その席は、椅子が少し壊れていてガタガタしていたのですが、それは言わないでおこうと思います。
◆ ◆ ◆
「お客さ〜ん、お決まりになりましたら注文してくださいね〜」
入ってからしばらくメニューを見ていた私に、奥から店員さんが声をかけます。
私はあまりこのようなお店は利用しないため、ついついメニューを上から下まで一つづつ、値段までチェックしてしまいます。
入る前は『牛丼 並』にしようと思っていたのですが、いざメニューを見ると、どれも美味しそうな気がしてしまい、ついつい考え込んでしまいました。
キムチ牛丼……。
一方、となりの川澄先輩は、席についてからもずっと私の顔を見ています。
私も、決して川澄先輩の視線が嫌だというわけではありませんが、正直、無言でジッと見つめられるのは居心地がいいとは言えません。
「あの……川澄先輩は御注文はお決まりですか?」
話を逸らせようと(とは言ってもお互い無言でしたが)私は声をかけますが、川澄先輩は無言でジッと私を見ています。
これはどうしたものかとしばらく私が考え込んでいると、やっと川澄先輩は口をひらいてくれました。
「美汐は……狐さんのことは、立ち直った……?」
突然の言葉に、私はつい、手に持ったメニューを取り落としてしまいました
狐……。
それは、真琴ではなく、きっと……あの子のこと。
何故か分かりませんが、川澄先輩が言っているのが、『あの子』のことだと、私にはわかりました。
相沢さんがどこまで話したのかはわかりません。
でも、私を見る川澄先輩は、私の中の、あの子をジッと見つめているようで……。
私は、コクリ……と頷くことしか出来ませんでした。
無理な微笑を作って。
頷くだけでした。
……何か言葉に出したら、嘘をついてしまいそうだったから。
「……美汐は、強い。……きっと、佐祐理よりも」
……私は川澄先輩から、その瞳から、視線を外すことが出来ませんでした。
「でも……佐祐理よりも寂しそう……」
不思議な先輩。
川澄先輩は、それ以上なにも言わず、ただ私の頭を撫でてくれます。
私を見るその瞳は、本当に何もかも知っているかのようです。
私の頭を静かに撫でる川澄先輩の手は、私を元気づけてくれるような、不思議な暖かさを持っていました。
相沢さんの言う通り、とても不思議で……優しい先輩。
「……たぬきさん」
でも、その『たぬきさん』というのはよくわかりません。
◆ ◆ ◆
私は、もしかしたら生まれて初めて『キムチ牛丼』を食べるのかもしれません。いえ、今までに食べた記憶が無いのだから、生まれて初めて食べるのでしょう。
私の隣では川澄先輩が、ちゃっかり大盛り牛丼を食べています。私は、『並くらいなら』と言ったのですが。
いえ、別に100円程度のことでとやかくはいいません。
もちろんこれが相沢さんなら、許しはしませんが。
でも、川澄先輩なら、それくらいのことで怒ろうとは思えません。特盛りでも私は怒らないでしょう。
手持ちが多いわけではありません。……でも、私を撫でてくれたお礼として考えても、100円じゃ全然足りないくらいなのですから。
と、そんなことを考えていると、また食べる手をとめて、川澄先輩が私をジッと見ています。
「……美汐」
「……はい」
私も食べる手をとめて、川澄先輩の顔を見ます。
瞳を見ようとしたのですが、ついつい先輩の頬の御飯粒に目がいってしまいます。この際それはどうでもいいことですが。
川澄先輩は、また、しばらく私の瞳を見て……。
「……特盛り、お代わりしたい」
………………。
……あ、いま御飯粒が落ちました。
◇ ◇ ◇
そんなこんなで結局、川澄先輩は牛丼を大盛り二杯に味噌汁と漬け物のセットを1つ、私がキムチ牛丼二杯を食べてからお店を後にしました。
川澄先輩が『私が割引券を出す』と言って、割引券を2人分出してくれましたので、なんとか足りましたが。
でも、牛丼でお金が足りなくなってしまうのは少しいけませんね。銀行にいかないと。
別れ際。
川澄先輩は私の顔をジッと見て、お礼の言葉を言うとさっそうと身を翻し、町並みへと消えていきました。
途中で何度か振り返って私の姿を確認していました。
……まるで、子犬か、子狐のようでした。
でも、川澄先輩。
私はひとつだけ、先輩に伝えておかなければならないことがあります。
次に会ったときに、先輩に絶対に伝えておかなければならない、とても大切なことがあります。
『……お金は今度返すから』
『いえ……あ、はい』
『……ありがとう』
『……いえ』
『美汐……じゃなくて、たぬきさん』
川澄先輩。
……私は、たぬきではありません。
〜了〜
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