「あら、ごきげんよう。こんな所で会うなんて、奇遇ね」
「ごきげんよう。静さまも、お帰りですか?」
晴れやかな土曜日の昼過ぎ。
放課後にマリア像の前でリリアンの生徒同士が出会ったとして、それは別に奇遇でもなんでもない事象。
だけれど、今まで毎日のようにマリア像の前で手を合わせていたというのに、藤堂志摩子と蟹名静さまがこの場所で出会ったのは、初めてのことだった。
だから、やはりこれは奇遇。
或いは、マリア様のお導き、とでも言うのかも知れないなと、静さまの姿を見ながら志摩子は頭の片隅で考えていた。
「先日は、ありがとうございました」
「あら、私はお礼を言われるようなことは何もしていないわよ?」
「そんなこと……」
そんなことはない、と言おうとしたが、しかしやめた。
ここで言う先日とは、バレンタイン企画での、半日デートのこと。
そして、お礼を言われるようなこと、とは、色々あるけれどやはり、志摩子と、白薔薇さまことお姉さまを引き合わせてくれたこと。二人の時間をくれたこと。
しかし、礼を言ったところで無駄なのだ。この人は、一度否定したことは、まず認めようとはしない人だと思ったから。
静さまはきっと、手を貸した上でなお、部外者でいたいのだろうと、志摩子は思う。
自分やお姉さまとは違う意味で、或いは孤独なのかもしれない。
選挙の時の“外部からの立候補者”というイメージが根にあるのかもしれないが、志摩子にとって静さまは、いつも常に一歩引いた場所で見ている人だった。
常に少し離れた場所で、全員の位置関係を把握している人で。だからこそ、人には見えない様々なものごとが、この人には見えているのではないかと、思った。
そういう意味では、クラスメイトの蔦子さんに、もしかしたら似たタイプなのかもしれないなとも、思う。残念ながら、蔦子さんとはそれほどの関係ではないけれど、カメラ好きな彼女もやはり、一歩離れて位置関係を見てくれているタイプではないだろうか。
そして大抵の場合、一歩引いた場所に居座られると、特に相手に踏み込めない志摩子のような人間にとってそれは、手の届かない存在にすらなり得る。
それがもしかしたら、志摩子にとり静さまが、不思議な、そして謎にみちた存在である理由の1つになるのかもしれない。
「まあいいわ。ところで志摩子さん、今から空いてるかしら?」
「え? はい、空いてはいますけど」
「そう。なら、デートをしましょうか」
「デート、ですか?」
マリア像に手を合わせていたかと思えば、唐突に振り返り、志摩子の顔を覗き見る静さま。
当の志摩子といえば、突然のデートのお誘いに、首を傾げるばかり。
首を傾げ、静さまの視線を受けつつ、やはりこの人は得体の知れない人物だなと、改めて実感。
薔薇さま方も色々な意味で得体が知れなかったけれど、それとはまた別な方向で、わからない人だ。
時間が空いているから、静さまに付き合うことは、嫌では無いけれど。
静さまと時間を共有することについては、小さな不安はあるが、そしてそれより大きい期待も確かにあるけれど。
しかしなぜ、デート、となるのか。
「あ、そんなに不思議がらないで頂戴。この前出来なかった分、今度こそデートがしたいってだけだから」
「お言葉ですが、デートなら先日にも……」
数日前に、半日デートはしたはずだ。志摩子の記憶が狂っていなければ、だが。
「あれは……そう。新聞部の企画した疑似デート、といったところかしら? 記者の目を気にしながら、レポートにまとめることを前提にしたデートなんて、デートとは言えないとは思わない?」
語りながら、すでに静さまの手は志摩子の右手をつかみ、どことも知らない目的地へと歩き出していた。
OKを出した記憶はないけれど、既に今からデートすることは決定しているらしい。
でも、半ば強引な、人によっては失礼な振る舞いにしか思えないそれも。
相手が静さまなら、不思議と不快感はなかった。
「え、と、デートとはここで?」
「ええ。この前食べた食事は美味しかったけれど、やっぱりデパートの惣菜よりは、ちゃんとした食事を二人でしたいじゃない?」
そうは言っても、デートという言葉からして。静さまのイメージからして。そしてリリアンの校風からして。
うどん屋でデートとは、あまり連想出来る物ではなかった。
「私がうどんを食べるなんて、意外?」
「はい、あ、いえ……」
静さまでもうどんは食べるだろうし、それは意外ではない。勿論、たやすく想像できる光景でもないが。
しかし、自分を誘ってうどんを食べる静さま、というのは、正直に言って意外だった。
「志摩子さんが抵抗あるなら、もっと別なお店でもいいんだけれど。ほら、あなたって和風じゃない」
「へっ?」
面と向かって"和風"と言われたのは初めてだったので、ついうっかり、気の抜けた返事。
言ってから、今の返事は祐巳さんみたいだったなと、頭の片隅で思う。
「へっ? って、祐巳さんじゃないんだから」
静さまにまで言われてしまい、ショックだった。
ショックで、和風だからという理由だけで、あえて駅前商店街のうどん屋を選んだ理由を聞きそびれてしまった。
そして結局、意外ではあったけれど、やはり志摩子は和食は嫌いではなく、うどんもやはり嫌いではなく。
静さまがうどんを食べたいというのなら、異論を唱える理由もなく。
立っていても営業妨害だから、という静さまの催促に頷いて、促されるまま入店していった。
でも本当はーー。
「それにリリアンの生徒がうどん屋の前で立ち往生っていうのも、少し見映えが悪いものね」
入店してから静さまが小さく呟いたそれが、きっと一番の本音だろう。
何ごとかと周りから集まる好奇の視線は、さすがの志摩子でも少し恥ずかしかったのだから。
うどん屋。
入る前はどんな店なのかと多少の不安もあったが、中に入ってみればなんのことはない、定食屋のメニューの大半がうどんになっているだけようなものだった。とはいえ、定食屋なら志摩子にも馴染みがあるのかと言われれば、そういうわけでもないが。
少し薄暗い店内は、カウンター席と、その脇には4人がけのテーブルが二つ。壁には手書きのメニューを書いた紙が張り付けてある。うどんの他にも、簡単な定食もあるらしい。
先程の会話に反して、あまり和風を強調したイメージでもなく、あくまで商店街の手ごろな定食屋といった赴きだった。強いて言えば、BGMとして演歌が流されていたところが和風かもしれないが。
中に入ると、白いエプロンをつけた、少し豊満な体型をした志摩子たちの母親ほどのおばさまが、気さくに「あらいらっしゃいな」と笑顔で出迎えてくれた。
「リリアンの子たちがこんなお店に来てくれるなんて、珍しいねえ」
明るく笑いながら、志摩子と静さまをカウンター席に誘導し、メニューと水の入ったコップを二人分出すと、「ゆっくり決めていいよ」と残し、カウンターの奥へと消えていく。
メニューを手にとりながら、静さまが小声で、志摩子に話しかける。
「志摩子さんは、こういう場所は初めて?」
「いえ、親の付き合いで御近所の方のお店なら」
「あら、そうなの? 私はこういう雰囲気のお店は初めてなのよ」
「……そうなんですか」
よく知らないのに誘ったんですか!?
……と、これが祐巳さんや由乃さんならば、いわゆる"ツッコミ"を入れるんだろうな、と思いつつも、志摩子はあえて口にしない。
静さまが何を考えているのかわからないのは、今にはじまったことではないのだから。
「でも失敗ね。志摩子さんがもっとオロオロするようなお店じゃないと、仕返しにならないじゃない」
「仕返し、ですか?」
「ええ。志摩子さんをいじめてあげようかと思ったのに、効果はなかったみたいで悔しいわ」
「いじめって……先日仰っていた、仕返しで意地悪、ですか?」
メニューを見ながら、そうよ、とさらりと肯定してから顔を志摩子に向ける。そして、ああ悔しい……と、それは楽しそうに悔しがる。
志摩子もつられて、一緒に笑ってしまった。
やはり、静さまは先の読めない人だと再認識しつつ。
「志摩子さん、本気?」
「はい?」
たぬきうどんを前にした静さまは、まるで信じられない物を見るかのように、志摩子の顔を見る。
何か妙なことでもしただろうか。本気? と聞くからには、顔に何かついているとかいうことでもないだろう。
「えと、何か妙なことをしてしまったでしょうか?」
念のため、自分の身なりを確認する。
いつもの制服に、鞄はカウンター下の棚に入れてある。
制服がよごれないように念のため、ということで、ハンカチを首からエプロンのようにかけているが、それは静さまも同様。
あとは、割り箸を手に、目の前のカレーうどんを食べようとしているだけ。
「あの、静さま、何か?」
もう一度聞いてみた。
「いや、別に志摩子さんが構わないならいいのだけれど……」
「はい?」
静さまは、志摩子のカレーうどんをチラリと見てから、一言。
「カレーの汁は制服についたら落ちにくいのではなくて?」
そう言えば、カレーうどんを頼んだ時、お店のおばさまも何か言っていたような気もする。
制服大丈夫? とかなんとか。なるほど、カレーの汁がはねた時のことを心配して下さっていたのか。
「なるほど、そういうことですか……」
「ええ、そういうこと。頼んでしまったものは仕方ないけれど、お店のおばさまにエプロンでもお借りする?」
「いえ、大丈夫ですよ。汁を飛ばさなければ問題ないですし」
「それはそうだけど……」
なんだか、静さまは先程から妙にオロオロしている気がする。
志摩子を困らせるためにうどん屋に誘った静さま本人がオロオロしてどうするんだろうと、ついクスリと笑ってしまう。
「志摩子さん、ここは笑うところじゃなくてね?」
それにくわえて、あのロサ・カニーナこと静さまが、たかが後輩のカレーうどんだけでこうオロオロしている姿が、失礼だけれど妙に滑稽で。
そして、そんなくだらないことではあるけれど……。いや違う、くだらないことでも心配してくれる人がいるというのが、とても嬉しくて。
何故だか、笑いが止まらなかった。
多分、ロザリオも姉妹制度も関係なく、今この時だけは、静さまと私は姉妹になっているんだろうな。
笑いながら、心のどこかで、そう思った。
「静さま、たぬきうどんやたぬきそばって、実はたぬきではないという説があるのを御存じですか?」
「あなたも突然妙なこと言うのね。たぬきではないって、どういうことかしら?」
静さまはうどんを絡めた箸を止めて、不思議そうに志摩子の言葉の続きを待っている。
お店のおばさまは、今は奥に戻っているため、おそらくこの会話は聞かれていないだろう。
聞かれて困る話ではないが、うどん屋のおばさまの前で、うどんについての話題をするのは気が引ける。
「静さまがお食べになっているそれ、たぬきうどんですよね?」
「むぐ……ええ、確かにたぬきうどんを頼んだわ」
静さまは、箸をつけていたうどんを軽くすすり、飲み込みながら頷いた。
行儀がいいとは言えないけれど、無礼講だろう。そもそも相手の食事中に話しかけている時点で、志摩子自身のほうが行儀が悪いのだ。
「私も詳しく調べたわけではないのですが、たぬきそばやたぬきうどんって、地方によって呼び方が違うらしいですよ?」
「そうなの?」
「はい。厳密に言えば、地域によってはたぬきうどんの内容が違かったり、或いはたぬきうどん自体が存在しなかったりするそうです」
「変なこと知ってるのね。でもどうしてかしら?」
静さまは、箸を止め、志摩子の話の続きを促してくれる。目はまっすぐに、志摩子の瞳を見つめて。
このようなとき、静さまは大人だな、と思う。それが例えくだらない、タヌキうどんの話題でも、まっすぐに聞いてくれる。
「地域によっては、たぬきの名がついていても、内容は油揚げだったりするそうです」
「油揚げといえば狐ってイメージだけれど……」
「そうですよね。ちなみに、たぬきの由来ですけれど、天ぷらのタネヌキが鈍って、タヌキ、になったという説もあるそうです」
「あら、そうなの。私はてっきり、狐に対して狸っていう単純な理由だとばかり思っていたけれど、なかなか奥が深いのね……」
「そういう説も勿論ありますが、実際のところは謎にみちています。奥が深いですよね」
「その点、志摩子さんのカレーうどんはどうなのかしら? 奥は深そう?」
「カレー自体が、インドから日本に渡り、家庭料理になるまでに色々とありますから。きっと奥は深いと思います」
二人、目を合わせて笑い合ってから、そしてどちらからともなく、再びうどんに箸をつける。
カレーの汁は飛ばさないように。音を立てないように、というのは無理でも、できるだけ綺麗に。
しかし、カレーうどんを食べながら思う。たぬきうどんの話について。それを聞いてくださった静さまについて。
もともとは自分から話しかけておいてなんだけれど、こんなどうでもいいお話をちゃんと聞いてくれるなんて、と。
今まで、学友と外食という機会もなく、うどんについて語る機会ももちろん無かった志摩子にとっては、この程度のことが逆に新鮮な驚きだった。
例えば祐巳さんに銀杏の話をしたことはあったけれど、残念ながら祐巳さんはさほど銀杏には興味は無かった様子であり、どちらかと言えば、話題にひいていたと思うから。
ともかくそして、そんな驚きと同時に。
前から一度この話題を誰かと話してみたかったから、少し、嬉しくもあった。――静さまのお食事の邪魔をしてしまったのは反省しなければならないことだけれど。
「ごちそうさまでした。志摩子さんは、あと少しね」
「あ、はい。急ぎますので」
「ううん、ゆっくりでいいの。その間、私は志摩子さんがうどんをすすってる姿、間近で見学させてもらっているから。これって滅多に見れる姿じゃないもの」
「し、静さま……」
静は、悪戯っぽく口元に笑みを浮かべながら、志摩子を覗き込む。
カレーが飛ばないように気を付けていて、ただでさえ食べるスピードが遅くなっているというのに。その上、間近でじっと観察なんてされてしまうと、緊張してしまいさらに食べるのが遅くなってしまう。
もしかしたらこれも、静さまの言う"仕返し"の1つなのだろうか。だとしたら静さまはとても怖いお方だと思う。
例えば靴にクリップを入れられたり、上履きを数メートル移動されたりという仕返しなら、被害を受けたとしてもさして実害はないので我慢できる。けれども、うどんをすすっている姿を観察するだなんて、この上なくタチの悪い仕返しだと思う。
物質的な実害こそないけれど、この恥ずかしさはいかんともしがたい。
そう、こんなに恥ずかしかったのは、ホームルームの際にプリントの名前欄とクラス欄を逆に書いてしまったのを、祐巳さんに見られてしまったとき以来。(今思い出すと、祐巳さんでまだよかった、とホッとする)
あの時は祐巳さんも祐巳さんで、「し、志摩子さん、重要なプリントだから、そ、その、間違いとかないか見直しておいたいいと思うよっ、うん!」なんて、遠回しに指摘しないで、ストレートに言ってくれれば良かったのに。
遠回しにすることで、余計にこちらが恥ずかしいとは思わなかったのだろうか。多分、思わなかったのだろうけれど。
ともかく、そのときと同じくらい、静さまにこの姿を見られているのは恥ずかしい。
「志摩子さんたら、カレーうどん食べるのにそんなに耳を真っ赤にして、可愛いわね」
静さまは、志摩子の気持ちに気付いておきながら、わざとそんなことを言う。
ロサ・カニーナ、恐ろしいお方。
「でも、からかってばかりで志摩子さんに嫌われるのは遠慮したいところだから、しばらくはよそ見てることにするわね。その間に食べちゃいなさい」
ロサ・カニーナ、意地悪を最後まで通せないという、優しい方。
「ごちそうさまでした」
「ほら、志摩子さん、口の周りに少しカレーがついてるわよ?」
「あ……」
静さまが、ナプキンで志摩子の口元を拭う。
そして、そのまま志摩子を抱き寄せるようにして顔を近付け、その涼しげな瞳は志摩子の唇を――。
「あの、静……さま」
「うん……やっぱり少しカレーくさいわね。ガムでも噛むかしら?」
口臭をかがれてしまった。
さすがに、生徒たちの代表である次期ロサ・ギガンティアともあろうものがガムを噛みながら町なかを歩くというわけにもいかないので、ガムは遠慮したけれど、あとで洗面所で歯磨き、あるいは最低でもうがい程度はしておかないと。
――この店のカレーうどんにニンニクが入っていると分かっていれば、自分も静さまと同じ月見うどんにしたのに。
後悔先に立たずとはこのことか。
「それにしても、リリアンの子がこんなお店に来てくれるなんてねえ。お口に合ってなかったらごめんなさいね」
「そんなことありませんわ、美味しいおうどんでした。また機会があれば寄らせていただきます」
会計のために出てきたおばさまが、静さまのお言葉に嬉しそうに笑う。
「あら、じゃあ今度はお友達をたくさん引き連れてきてもらおうかしら」
「そうですね、今度は仲の良い先輩を誘ってみますね」
仲の良い先輩というのは、お姉さまのことだろうか。
少しだけ、やける。お姉さまと静さまのどちらに対しての感情なのか、わからないけど。
「あ、でも、やっぱり次に来る時は私服の時にしておきなさいね。おばさん、ちょっとハラハラしちゃったわよ」
「あ、それは同感です」
そう言うと、二人とも志摩子に視線をやる。
志摩子は最初の言葉通り、見事にカレーを一滴も飛ばさずにカレーうどん食べると言う芸当をやってのけたので、制服が汚れたということはないのだが、どうもこの二人には心配をかけてしまったらしい。
しかしここで、ごめんなさい、と謝るのもおかしい気がするので、志摩子はただ苦笑を浮かべるだけだったが。
「うんうん、でも制服も汚れてないみたいだし良かったよ、その制服は洗いにくいからねえ。そのロザリオも汚れたりしてないかい?」
「志摩子さん、大丈夫?」
「ええ。もちろん大丈夫です」
ちょうどポケットから出してロザリオを手首につけようとしていたら、おばさまがそれに気付いたらしい。
これは、白薔薇さまであるお姉さまから受け取ったロザリオ。大切なロザリオ。
カレーうどんなんかで汚すわけにはいかないから、食事中は制服のポケットに仕舞っておいた。
お姉さまなら「汚れたって拭けばいいだけじゃない」とか言いそうではあるけれど、それでも汚すわけにはいかない、大切なものだから。
「……おや、そのロザリオ」
おばさまが、志摩子のロザリオを見て、反応する。一瞬、困惑とも安堵ともいえそうな、微妙な表情。
「はい?」
「……ううん、なんでもないよ。ハイハイ、それじゃ二人とも、ちゃんと帰りなさいね?」
「はぁ」
しかしなんだか突然話を打ち切られてしまった。
静さまも、頭の横に小さくクエスチョンマークを浮かべているが、おばさまはまたにこやかな表情に戻っている。
「ほらほら、リリアンの生徒は下校時に寄り道なんてしちゃいけないんだから、まっすぐ帰らないとだめだよ?」
「ふふ、それもそうですね」
おばさまは静さまの手をとると、お店の出入り口の引き戸をあけて、二人を促した。
確かに、さすがにいつまでもここで話しているわけにもいかないので、静さまもおばさまに小さく会釈してから、店を出る。それに続いて志摩子も。
「それではおばさま、美味しいおうどんをありがとうございました。ごきげんよう」
「カレーうどん、美味しかったです。ごきげんよう」
静さまにならって、優雅に頭を下げる。
「ええ、ごきげんよう」
おばさまも、同じように、二人に頭をさげて。
戸が閉まる直前の、おばさまの照れ笑いが印象的だった。
「さて、と。本当はこのまま志摩子さんと映画でも見にいきたいところだけれど、さすがに制服姿のままデートの続きはやめておいたほうが賢明かしら?」
「あ……そう、ですね」
駅に向かって歩きながら、静さまが言う。
志摩子は、静さまの口元についたネギのカスに気付いてしまい、「あ…」と声を漏らしてしまったが、とりあえずそのことには触れないでおいた。否、触れられなかった。
こういう場合は困るもので、静さまに恥をかかせたくないから言えないし、しかし逆に、このまま気付かないフリをしていても、結果としてそれ以上に静さまに恥をかかせることになる。
これが例えば同級生である祐巳さんが相手ならば、遠慮なく「祐巳さん、ネギよ、ネギ。……あの、だからネギ」と注意出来るところなのだが、さすがにそれは気心のある程度しれた、上下関係のない相手だからできること。
静さまが相手では、「静さま、口の周りにネギがついていて情けないです」とは言えないだろう。
いや、別に情けないとか言わなければいいのだろうけれど。
「志摩子さん? どうかなさって?」
「いえ、なんでもありません。それでは、残念ですが……帰りましょうか」
もう一度振り返った静さまにはネギはついていなかったので、ホッとした。
ネギがどこえ消えたかが気になったが、探しても見あたらないので、あきらめた。
「それじゃあ、志摩子さん、今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ、お誘いいただいて……その、ありがとうございました」
志摩子と静は帰る方向が別だったため、駅前で解散となる。
けれど、どうしたものか、いざ別れるとなると、何と言えばよいのか分からない。
一方的に誘われただけの志摩子が、また今度続きを、とか言い出すのも違う気がする。かといって、今日は楽しかった、という程のこともしていない。うどんを食べただけなのだから。
結局、他に気の効いた言葉もみつからないため、ありがとうございました、と無難な台詞を言っておいた。
静さまは、そんな志摩子の思考を知ってか知らずか、クスリと笑ってから。
そして、「今度、映画でも行きましょうね」と残すと、そのままくるりと振り返り、志摩子を振り返ることもなく、人込みの中に消えてしまった。
「今のは……やはり、デートのお誘い、でしょうか」
その問いに答える人影は、すでにいなくて。
「……次は、お姉さまも誘って、ちゃんと休日に予定もあけておかないと」
すでに、次の機会を楽しみにしている自分しかいなかったのが、少しだけ意外だった。
――後日
「え〜!? 志摩子さんと静さまがうどん?!」
「祐巳さん、そんなに驚かなくても……」
「そ、それはそうだけど、だって志摩子さんがうどん……は似合うけど、静さまがうどんかあ」
「祐巳さんも、祥子さまを誘っておうどんでも食べてみればいいじゃない」
「え、祥子さまがうどんかぁ……。えへへ、う〜ん、どうかなあ、だってほら、ねえ?」
「祐巳さん、何を考えているのか分からないけれど、うどん屋でそんな官能的な表情はないと思うわよ?」
「え!? か、顔に出てた?」
「ええ」
「はぅ……」
「あの、お二人さん。今の会話まる聞こえだったんだけど、記事にしちゃっていいの?」
「あら、確かあなたは新聞部の……」
「山口真美です、白薔薇のつぼみ」
「記事にするのは良いのだけれど、ちゃんと静さまの許可も貰ってからにしてくれるかしら?」
「って志摩子さん、記事にするのは構わないんだね」
「だって、恥ずかしいことじゃないもの」
「白薔薇のつぼみ、それならせっかくだから、次回以降のデートの約束についても―――」
―――さらに後日
リリアンかわら版『白薔薇姉妹と蟹名嬢、次のデートはドラえもん映画!!』
「え〜!? 志摩子さんと静さまと白薔薇さまが、ドラえもん?!」
「祐巳さん、そんなに驚かなくても……」
「そ、それはそうだけど、だって白薔薇さまがドラえもん……は似合うけど、志摩子さんと静さまがドラえもんかあ」
「ちょうどいい映画がなかったのよ。祐巳さんも、祥子さまを誘ってドラえもん見てみればいいじゃない」
「え、祥子さまがドラえもんかぁ……。えへへ、う〜ん、どうかなあ、だってほら、ねえ?」
「祐巳さん、何を考えているのか分からないけれど、ドラえもんでそんな官能的な表情はないと思うわよ?」
「え!? か、顔に出てた?」
「ええ」
「はぅ……」
――その後、リリアン高等部を中心に、うどんブーム、そしてドラえもんブームが訪れたのは、言うまでもない。