音楽でもお聞きになりながら、ごゆっくりどうぞ/ログ部屋のメイドさん

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 10月22日  たとえば、こんな詩。 −レモン哀歌−

 私も色々趣味が広いもので。
 詩、なんかも好きだったりします。
 今まで、オリジナルSSや二次創作内でも触れたりもしています。
 そんな中から、一番私の好きな詩(うた)。
 高村光太郎『智恵子抄』から、レモン哀歌を。

レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

 高村光太郎が妻・智恵子の最期の刻を描いた詩です。
 私のオリジナルSS『窓をあけて……』のキャラクター、“アイ”こと檸檬哀花の名はこの詩から名付けました。
 智恵子が最期の刻に見せた微笑みと愛情。
 そんな智恵子のような勁さと、それだけではなく、弱さも併せ持つ人間の姿をアイに投影できれば……と。

 『智恵子抄』には、高村光太郎の妻への思いが描かれたたくさんの詩があります。
 機会があればぜひご一読下さい。
 その後、拙作『窓をあけて……』も読んでいただければ、と思います。
 私が描写しきれなかった、そんな部分も感じていただけるかもしれません。

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 10月23日  たとえば、こんな詩。 −純銀もざいく−

 さて。
 人間を描いた詩で一番好きなのはレモン哀歌。
 景色を描いた詩で一番好きなものは……純銀もざいくです。

風景 純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

 山村暮鳥『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』の収録作です。
 どこまでも、どこまでも広がる菜の花畑。
 そんな黄色い世界にちょっとした変化を与えられて。
 それでも、どこまでも菜の花畑は広がっていて。
 見たことがない風景なのに、あたかも自身の目前に“いちめんのなのはな”が広がっているような、そんな想いを抱かされる詩です。
 『窓をあけて……』のキャラクター“スズ”もこの詩を読んで、知らないはずの外の世界を脳裏に映し出し、その風景に教習を感じています。

 ……ただ。
 山村暮鳥の作品で、わかりやすく読みやすい作品はこの『純銀もざいく』ぐらいのもので、他の作品は私には理解しがたいものが多くありました。
 ですが、ちょっと変わった山村暮鳥の世界を覗いて見るのも楽しいかもしれませんよ。
 機会があればぜひご一読下さい。

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 10月24日  たとえば、こんな詩。 −I am a thousand winds−

 死をテーマにした詩はたくさんあります。
 その中でも、とても優しくて、残された人への想いに満ちている詩を。
 朝日新聞の天声人語で取り上げられ、話題になった詩……I am a thousand winds

I am a thousand winds

Do not stand at my grave and weep;
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow.
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumn's rain.

When you awaken in the morning's hush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.

Do not stand at my grave and cry;
I am not there, I did not die.


『1000の風』 訳詞:南風 椎

私の墓石の前に立って涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。

私は1000の風になって吹きぬけています。
私はダイアモンドのように雪の上で輝いています。
私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
秋にはやさしい風になります。

朝の静けさのなかであなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって駆けあがり
鳥たちを空でくるくると舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。

どうか、その墓石の前で泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んではいないのです。

 和訳されたこの詩には、もっと感情豊かに意訳された詩もあります。
 しかし、今回はあえて原文に忠実な南風雅さんの訳文を掲載しました。
 この詩の作者の想いをそのままのかたちで感じて欲しかったからです。
 私がこちらの訳を気に入っているというのもありますが……。
 必要以上に言葉を飾るより、切々と作者の優しい想いが伝わってくるように思えるからです。
 私の『窓をあけて……』はこの詩の影響で書いたわけではありません。
 この詩のような純粋で綺麗な想いを持ったキャラクターを私は描くことができません。
 人間は誰しも弱い部分、醜い部分を持っていて、極限状態ではそれが表面化する。
 自分自身も含めて、誰もがそうなると考えているからです。
 ですが、この詩を読んで……。
 自分こそが弱い心を持っているからこそ、他人もその心を持っていて醜いものだと考えたいだけなのかもしれない……そう感じました。

 大切な人を失ったことがあります。
 いずれ私自身も死を迎えるときがあるでしょう。
 大切な人が、或いは私自身が、1000の風となって、大切な誰かのそばにいることができたら……。
 この詩は南風雅さんの『あとに残された人へ1000の風』で大きく取り上げられています。
 機会があればぜひご一読下さい。

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 11月08日  たとえば、こんな詩。 −道程−

 基本的に高村光太郎の作品は好きだったりします。
 ……というより、有名だから読んだことがある、というだけなのかもしれませんけど(汗
 その中でもあまりにも有名な詩、道程

道程

どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何という曲がりくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の廣大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕を引き廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
たうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の氣魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなった
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよってゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つのところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には廣漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のまま歩いてゆく
しかし四方は氣味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕は其の時又父にいのる
父は其の風景の間に僅しながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従って
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍いまわつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人間は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もっと此の風景に育まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい氣を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然は子供達が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め

 一般的に知られている『道程』とはだいぶ違いますね。
 処女詩集『道程』に掲載された有名なものは、この詩を短くしたものです。
 作品は、推敲を重ねることにより洗練されていきます。
 もちろん洗練された作品の方が読みやすく、評価が高くなるでしょう。
 ですが、洗練されていない原文であるからこそ、『生』の作者がそこにいるように思えます。
 これこそが、高村光太郎の道程です。
 格好をつけているわけでもない、削られてもいない、生きた高村光太郎の作品です。

 今回はあえて、原文を取り上げてみました。
 飾りのない高村光太郎を感じていただけたら幸いです。

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 12月03日  たとえば、こんな詩。 −番外編・智恵子抄−

 何年かぶりに、智恵子抄を全て読み返してみました。
 乱暴に要約すると、高村光太郎と妻・智恵子のラブストーリー。
 恋人同士の時代から、智恵子が亡くなるまで、そしてその後の想いが描かれています。
 その中から、もっとも有名な作品を。
 あどけない話

あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
本当の空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子の本当の空だといふ。

あどけない空の話である。

 智恵子抄といえば当たり前のように引用される、有名な作品です。
 ですが、智恵子抄はこの詩のようにほのぼのとした作品ばかりではありません。
 以前紹介したレモン哀歌のように、悲しみに満ちた詩もあります。
 愛に満ちた詩もあります。
 悩み苦しんでいる時もあります。
 その全てを含めて、智恵子抄なのです。
 全てを知らない方には、ぜひ一度『智恵子抄』の全作を読んでいただければと。

 私はこのあどけない話が特に好きというわけではありません。
 智恵子抄を紹介するにあたって、有名な作品を選んだに過ぎません。
 なので今回は番外編、なのです。

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たとえば、こんな詩。

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